こんにちは。
声と体で小説の世界を
生き生きと表現する舞台朗読研究所
S-R Labo 松井みどりです。
今回は「舞台朗読で
三人称の地の文を読む時のコツ」
についてお話します。
地の文って、誰がしゃべってるの?
このブログでは
地の文の読み方について
何度かお伝えしています。
他にも折に触れて
地の文の読み方については
いろいろお伝えしています。
それだけ小説を
読んで伝えるためには、
地の文の読み方が
大切だということです。
今回はまた違った視点から
アプローチしてみます。
俳優さんが朗読する時の悩み
私が俳優さんと
朗読舞台でご一緒する時に
よく聞かれるのは
「地の文って
どう読んだらいいんですか?」
ということです。
役者さんは普段
ひとつの役を与えられ、
その役として物語の中を生きる、
ということをしています。
なのに朗読では役とは別に
「地の文」というものがあるので、
ここをどう読んだらいいのか
迷われるんだと思います。
朗読者の方にも考えてほしい
最初から朗読をしている方は
「誰で読むって、何?」
という方もいらっしゃるでしょう。
朗読において地の文は
そこに自然にあるものなので、
「誰で読むか」については
考えないことが多いからです。
でも朗読をしている方の
地の文の読み方で
たまに気になるのは、
「誰でもない誰か」で読み過ぎて、
聴き手に訴えかける力が
弱くなってしまうことがある、
ということです。
ですから朗読に慣れている方も
今一度考えてみてください。
「一人称」と「三人称」
地の文をどう読んだらいいかを
考えるために大切なのは
その文章がどういう形式で
書かれているのか、ということです。
地の文には
一人称で書かれたものと
三人称で書かれたものが
あります。
あまり意識していないかも
しれませんが、
なんとなくわかりますよね?
まずはここから
整理してみましょう。
「一人称」の文章
一人称とは
登場人物のひとり(通常は主人公)
が語っているように
書かれた地の文のことです。
吾輩は猫である。名前はまだ無い。
どこで生れたかとんと見当がつかぬ。
何でも薄暗いじめじめした所で
ニャーニャー泣いていた事だけは
記憶している。
「吾輩は猫である」夏目漱石
例えば皆さんよくご存じの
「吾輩は猫である」の冒頭です。
この文章は主人公の猫が
語っているように
書かれているので、
一人称の地の文です。
このような文章は
今回の「誰で読むか」
ということについては
とてもはっきりしています。
問題なく主人公として
読んでいきましょう。
「三人称」の文章
問題は三人称で書かれた
地の文です。
三人称とは、
誰かという記述は特になく、
第三者が見たとおりに
書いてある文章です。
親譲りの無鉄砲で
小供の時から損ばかりしている。
小学校に居る時分
学校の二階から飛び降りて
一週間ほど腰を抜かした事がある。
「坊ちゃん」夏目漱石
同じ夏目漱石の
「坊ちゃん」では、
主人公が自分の言葉で
語っているのではなく、
第三者が主人公を見て、
その行動について
客観的に話しています。
「賢治は立ち上がった」
というように、
登場人物の名前と
その人の行動が書いてある文章は
わかりやすい三人称の地の文です。
誰で読んだらいいのか
迷う文章は、このような
三人称の文章の時です。
三人称の地の文を読む時
「自分」として読む
舞台朗読において
三人称の地の文を読む時は、
「あなた自身」として読んでいく
というのが基本です。
他の誰でもない「あなた」が
この文章を読んで
どう思うかという気持ちを
文章に乗せてください。
朗読に個性が出るのは
書かれた文章をどうとらえるかが
人によって違うからです。
「自分で読む」とは「感想を表現する」ではない
しかしこの
「自分として読む」というのが
案外曲者です。
いろいろな小説を読んでいくと
たまには
「なんでこんなことするのかな?」
と、その内容について
疑問に思うこともあるでしょう。
そういう時に
「なんでかなぁ?」
という気持ちで読むのが
「自分として読む」
ということではありません。
あなたが物語全体について
個人的にどう思っても、
物語の流れは変わりません。
そしてその物語を
「地の文」を読むことで
紹介するあなたは、
「地の文を読む私」という役で
物語に寄り添う必要があります。
ここで混乱してしまう方が
多いように思います。
「自分で読む」と言われると
物語全体についての
自分の感想を表現するのかと
思ってしまうんですね。
それは正しくもあり
ちょっと違う部分もあり…
捉え方が難しいかもしれません。
ここで言う「自分で読む」とは、
物語のナビゲーターとして
誰よりも近くで
その状況や人物に興味を持ち、
時に状況を説明し、
時に登場人物の気持ちを
代弁するという風に
どんどん立ち位置を変えながら、
この物語を聴き手に届ける、
という役割を持った
「あなた」で読んでほしい、
ということです。
うまく地の文が読めない
という方は、
この部分がクリアに
なっていないのです。
そういう視点で
もう一度文章を読み直してください。
今までと違った感覚になりませんか?
でも「客観的に読めばいい」というわけでもない
また朗読が自然にできている方は、
感覚的にこの役割を
担うことができています。
それはとても素晴らしいことです。
ただあまりに自然すぎて、
客観的になり過ぎている方も
時々いらっしゃいます。
「地の文は説明だから
感情を入れずに読んでいく」
そういう考え方もあるでしょう。
否定はしません。
私がお伝えしている舞台朗読では、
お客さまである聴き手に
その小説をどれだけ楽しんで
いただけるかということが一番です。
そのためには一度
「あなた」というフィルターを通し、
「あなた」が心を動かすことで
聴き手に物語を届ける、
ということが大切だと
考えています。
そのためには
ナビゲーターとして
自分がどれだけ物語に寄り添って
聴き手をリードできるか…
そこにかかってきます。
もっと積極的に
物語に関わってみましょう。
そこから見えてくるものが
きっとあります。
何を読むかがとても大切
そう考えていくと、
やはり自分が読んでいて
心が動いた話を読むのが
一番聴き手に伝わります。
「自分で読む」と
「感想を表現する」の差が
小さい方が自然に感情を
表現できるからです。
私はレッスンの時に
なるべく生徒さんご自身に
作品を決めてもらいます。
それはやはり
ご自身が共感できる物語だと、
読みに自然に気持ちが
乗せられるからです。
もちろんレッスンとして
いろいろな種類の作品を読む、
ということも大切ですが、
一番伝わるのは
ご自身が好きな物語です。
そこを意識すると
自分の価値観が分かって
面白いですよ。
こんな記事もありますので
ご興味ある方はご覧ください。
まとめ
今回は「舞台朗読で
三人称の地の文を読む時のコツ」
についてお話しました。
私自身は人に聞かれるまで、
地の文を誰かで読もうと
意識したことは
ありませんでした。
でもいろいろ考えていくと、
私は地の文を読みながら
心を動かして読んでいる…
つまり「自分として読んでいる」
ということに気づきました。
もちろん物語の世界に
本当にいるわけではないので
あくまで想像の世界ですが、
常に物語の一番近くにいて
泣いたり笑ったりしている…
それを見て聴き手が
自分の頭の中で物語を再構築して
楽しんでくれているのではと
思うようになったのです。
この感覚を意識すると
伝わり方が変わります。
ぜひ一度考えてみてください。
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